ネパール遠征4回目・2014年10月
  〔トレッキング報告〕
山行報告
 ○場所 : アンナプルナ サーキット、ティリツィオ氷河湖(5,015m)
 ○日程 : 2014年10月 3日 〜 10月23日
 ○パーティ : L鈴木輝男、富士子
コック1名、キッチンボーイ1名、スタッフ2名、ポーター6名・・・計13名
 ○コース : カトマンズ〜ベシハサール〜マナン〜ティリツィオ氷河湖展望台(大関ケルン作成)
輝男記
 当初行動予定表行動予定地図
標高
2014/10/3
マイホーム20:00出発、家族に送ってもらう 羽田空港国際カウンター着20:30 タイ航空チェックイン21:30 
1m
10/4
土曜日・晴れ
羽田 0:20 TG661.24AB バンコク空港着4:50 バンコク発10:15 TG319.14KJ カトマンズ空港着陸 12:25
タラップを先頭で下りれて、入国審査も1番で出れて、機内預け荷物もすぐ出てきて、スムーズに外へ出るとコスモトレック、ガルツェンが飛び出してきた。
空港外のトイレに入ってから、ライトバンでコスモの事務所へ13:15着。
大津さんが到着早いのでビックリしてた。すぐ残金の支払いと旅程の打ち合わせ。
ヒマラヤ万年初心者の、私達の為にアムリット.・ガイド42才(子供4才)、パンカ・ガイド32才(子供2才.昨年チーム大関のガイド)を選んでくれた。さらに、コック、キッチンボーイ3名、ポーター5名でチーム鈴木を編成しており、12名で行動する内容の打ち合わせをしました。

カトマンズ泊・1330m
10/5
日曜日・晴れ
ガイドたちが乗り込んだバスが、ホテルへ迎えに来て、私達を乗せて7:10出発
郊外で2名乗せて雑踏をかき分け(交通ルールが無い道路)くぐり抜け、カトマンズ盆地から峠を越えて、坂を下り続け 西武方面へ走る。
ブルブレで右折して鉄橋を渡り、ポカラ方面へ進む。
橋のたもとのドライブインで昼食。ポカラへ向かう途中の、ゴルカ方面の次の、ムグリンのT字路をン右折して、ベシハサール方面へ田園地帯の中の緩やかな坂を登り続けて7時間近くで到着。マ-シャンディ川右岸の台地 ベシハサール町 14:30着 ...(夜は犬の鳴き声と、大型トラックの通過音で、寝てられなかった)

ベジサハール泊・1760m
10/6
月曜日・晴れ
6:50発、宿泊したロッジ前から、ジープ車に12人分の荷物を屋根に積み上げ、運転手の他に12人が乗り込んで、オンボロ、デゴテコ メチャクチャ道路をチャーメ方面へ進むが、チャムジェ集落のすぐ先で、おおきな崖崩れ発生し道路陥没有り。
ダイナマイトで無理無理爆破した前後がその現場でありみたところ来春まで復旧の見込みはなさそうだ。
荷物肩に担いで 危険な現場を通過して、タール村の見渡せる食堂まで約1時間歩く。
ガイドが急遽手配した2台目のジープがチャーメの方面から来て、又荷物を積み込んで、走り出すが30分もしないうちにハンドルが壊れて、走れなくなった。
タイヤは丸坊主、外見ボロボロの自動車では信頼できない。荷物を背負って ダラパニ(マナスル方面への分岐点)まで、歩きました。
ダラパニ集落 17:30着 スリーシスターゲストハウス

ダラバニ泊・1860m
10/7
火曜日・晴れ
ダラパニの宿泊したロッジへ、ガイドが手配した3台目のジープ(外観やや綺麗な車)が来て、1時間かかって荷物を積み上げて 8:00出発。
歩行者や家畜をクラクションで威嚇しながら、ものすごい悪路を 川に転落する位の土砂崩れ跡も車体を傾けつつ、乗客の恐怖を無視して突っ走るので、正直もう乗りたくないと悲鳴をあげたかった。
さすがに滝下を横断する場所は、乗客は下車させて貰い歩いて通過した。
(乱暴な言い方をする成れば、槍ヶ岳肩の小屋まで、ジープで駆け上がるような感じでしょうか?)
ダラパニから3台目ジープで 8:00出発 チャーメ10:20着  昼食後 村内散策
宿泊したロッジの食堂で、僧侶がこの家の法要をしていた。
気をつけてみていると仏教の基本は同じ事をかんじさせられた。
(先祖を敬う心(過去)、家族の安寧を願う心(現在)、事業の繁栄(未来、将来の為)を願う心)
チャーメ到着は1日遅れた

チャーメ泊・2670m
10/8
水曜日・晴れ
チャーメ 7:30から 右(チベット側)に大岩壁つづき、左下のmarsyangdi khora マーシャン゙ディ川の南側に、アンナプルナ連山、谷深い中を過ぎて、バラタンの集落にリンゴ畑が続き、バッティで休憩の後、右手から押し出してくるピサンピークから派生する巨大スラブ帯に突き当たる。
オートバイも通れる吊り橋を南へ渡った橋のたもとに銀マットを敷いてコックが食事場所を作ってくれた。
そこから、一瞬ですが、北八ヶ岳を想起させる樹林帯の坂を登って、しばらく歩いていくと、カンニ門のあるピサンの下村に着いた 14:10。
高度順化に心がけ、北へ吊り橋を渡ってピサン上村の寺院まで90分掛けて往復した。寺院からは、高度差約4500mのⅡ峯が巨大な山容を手の届きそうな間近に見渡せて、体中から湧き上がる緊張を感じられた。

ピサン下村泊・3200m
10/9
木曜日・晴れ
ピサン下村を7:30に出てマニ車の連なった村内をすぎ、枝沢を渡り、緩やかな登りが小一時間続いて汗ばむ頃、峠に着く。峠からは テイリチョ峯(7134m)が見えた マナン警察のあるフムデでの飛行場も見える。
大関さんが逝った、ティリチョ峯をビデオカメラの望遠側で引き寄せると、怖いような景観が見通せる。
行くまでの行程に不安がよぎる。

峠から樹林帯の中をジグザグに下り、盆地に下ると、その真ん中に、マナン警察と、フムデの飛行場(3280m)がある。大関さんはここで検死を受けた。
チエックポストを過ぎ、飛行場から北側は荒涼とした景色が広がり、砂漠地帯になっていて、平地と山との境目に、マナン本村が位置している。中央広場があって、両側に登山客用のロッジと登山用品、日用品を取り扱っている店屋が並んでいる。
マナンは高度順化場所だ。
北側の仏塔のある場所に、掲示板があって、マナンから高度順化の為の近隣地トレーニングルートの絵表示が書き込まれていた。私達も90分の高度順応トレッキングをした。ガンガプルナ側の氷河湖へ向かったので、ガイドとポーターが同行してくれた。
ピサン7:30発 ムグジェ昼食11:20-13:00  マナン着14:10
マナンでは日用品が何でも買えるようでした。

マナン泊・3540m
(ロッジ)
10/10
金曜日・晴れ
マナン7:30発 予定では此所で1日停滞であったが、カンサーとの高度差が少ないので移動することにした。
いよいよマーシャンディ川の源流へ進み始める。
ガイドたちの歩行速度は、平地と同じ時速4キロメートル。緩やかな登りなので、頑張って付いていくと、カンサーまでの3時間で12キロメートル歩くことになる。富士山の高度に相当する所を歩いているので、注意しないと私達がここで高山病発症に成りかねない不安を感じた。
徒歩3時間弱で カンサー10:10着
カンサー村のゴンパの管理人に13:00の予約をして鍵を開けて貰い 金一封と蝋燭を寄進して仏前に手を合わせ登山安全祈願をした。
ゴンパから沢山のぼって高度計3900mの高さから南を望見すると、エルゾーグ隊が大障壁と名付けたアンナプルナ連山の連なりは、とても大きい。
ティリチョに大関ケルンを積まなくてはならない。私達も無事に日本へ帰らなくてはならない。

カンサー泊・3734m
(ロッジ)
10/11
土曜日・晴れ
限界集落であるカンサー村を7:30発 上り下り延々と続けながら下部シルカルカを通過、高度を上げていく、沢は吊橋を渡り・・・5500mの高度からマーシャンディの川底までの推定差2500mは、地滑り地帯の警告板が建てられていて緊張つづく、すれ違いも出来ないところもあって、常に上部からの崩落の気配に注意しながら、神経が疲れる登山道であった。
傾斜が緩くなり、尾根を回り込んで盆地となり ティリチョBCが見えた 12:10着
ロッジは3軒 私達は一番奥の古いロッジに入る。直射日光が強烈で、食堂にはいると一瞬 真っ暗に感じるほどでした。
高度順応の為、明日のコースを90分往復する。
ここはティリチョ峯の登山基地である。すり鉢の底を思わせる地形で、とても寒い。
見晴らしの良い高度へ登ると、今まで見たこともない ヒマラヤの紅葉を堪能する限界灌木帯があった。
絶妙な赤、黄、紫が見られて感激した。



ティリチョBC・4150m
ロッジ泊
10/12
日曜日・晴れ
今日はいよいよ大関さんが逝ったティリチョの氷河湖へ登るのだと自然に気合いが入る。
とても寒い夜が明けて、起床4時45分
身支度を調えて、5時45分外へ出るも、あたりはまだ暗闇の中である。ガイドと共に6時前に歩き始める...ダイアモス薬を1錠飲んだので、指先が異常に冷たい。
今日の行動距離は長いので、高度差850㍍を4時間以内で登り切れなくてはならない。初めの尾根上に登り、遙かに続く斜上コースをにらみビスターリ、ビスターリを、お題目に黙々と登り続ける。左に目を向ければ昨日まで遙か高見にあった連山が、手の届く距離に縮まってくる。
標高5000㍍に近いジグザグの急登は、何度も休み、呼吸を整えねばならなかった。
峠を越え、平坦になってからも高度障害の不安は消えない。
命懸けで、やっとたどり着いた氷河湖の展望台、エメラルド色の氷河湖は神秘的で、見る者を引きずり込みそうな魔力を秘めているように思えた。

一番高い場所に、私達はガイドに手伝って貰い、大関保ケルンを積みました。
手元の高度計は5015メートルを指していた。ケルンの基礎には、奥様から預かった遺品のコンパスを仲間から頂いた色紙に包み埋めました。合掌 9:40〜10:30
(チーム大関のガイドを務めた パンカさんキッチンボーイのサンさんお二人がティリチョ氷河湖まで道案内として登ってくれました。) 

何度も振り返りながら、大関ケルンを後にしました。下りは自然の様に足が動き、思ったより早い時間にBCへ戻れました。12:20着
それなりに疲労が出ていたのですが、気を取り直して、考えただけでも気味の悪い地滑り地帯を上り下りして、上部シルカルカまでが今日の予定です。
ながくつづく5500㍍からの斜面に付けられた登山道で、時々登ってくる人との、すれ違いが怖かったし、緊張はとぎれることはなかった。それでも、何とかシルカルカへ到着したときは、疲労を感じました。16:30到着
コースの前半は終えることが出来ました。



シルカルカ泊・4150m
10/13
月曜日 午前中晴れ から 午後曇りから 雪
マナスル方面の見晴らしがよいロッジの部屋から、日課のように6時前に外へ出て、周囲を撮影するが、ティリチョ峯に今朝は雲が出ていた。
7:30出発、今日は5500㍍尾根の中腹を縫いながら、アッパーカンサー4135m(集団離村、牧場はそのまま維持されている)を経て、尾根を越えてトロン川3700mに下り、吊り橋を渡って、トロンパスへの一般トレッキング道路3850mへ出て、ヤクカルカ4017mより30分上のチュリレダーまで登りました。
チュリレダー4240mは、チュールー峯のベースキャンプになっており、フランス隊がキャンプしていました。
14:40到着

ロッジ上の丘から周囲の山々を撮影していると、突然ヘリが飛んできて、すぐ下のヘリポートに着陸し、今朝高山病で死んだ若者を、物置小屋から運び出し飛び去っていったのには、正直ビックリした。
小屋の関係者の情報は実に早く、ここから1時間上側で今朝死んだオーストラリアの若者であると話していた。
飛び立つのと時を同じくして、急激に ガガプルナ峯に妙な色合いの紫色雲掛かる。
なんだこれは?異常な気配を感じる
18:00より雨.すぐ雪降り始める。

レダー泊・4240m
(ロッジ)
10/14
火曜日・大雪
前半で私達は当初の目的である、テイリチョ氷河湖へ大関保ケルンを作って来れたので、精神的に楽であった。
下山ルートをトロンパスに絞っていた。その為、今日はトロンフェデイ又はハイキャンプまでの行程なので、我々はゆっくり出発する。ポーターたちは7時半に5名が先発した。
8時前に中発ポーター4名、出発した。しかし雪は降り続いていて、気がかりでもある。
このとき50年山屋やってて、雪崩を心配していた。私達とガイドの3名は8:00にチュリレダーを出発、1時間近くゆっくり登っていったが、視界が悪い。

川を渡る前に安全の為、本日はロッジへ戻る。
ここからなら明日出発でも、馬さえ手配できればトロンパスは越えられるというので、ガイドに馬の手配を頼んだ。
突然10:30に ポーター4名雪崩に流されたと言って、ずぶ濡れでチュリレダーのロッジへ下山してきた。
人も荷物も流されてしまったが、お客の品物は掘り出して持ち帰ったが、ポーターのザックは雪崩に流されてしまったと聞いたときはびっくりした。この事実を重く受け止め、ガイドと相談して登山中止と決めた。
トロンフェデイに登ったであろう、5名が気がかりであるが、パンカガイドが引率でいるので、安心することにした。
適切な判断をすると思うことにした。

レダー泊・4240m
(ロッジ)
10/15
水曜日・明け方から快晴
午前4時 星空が出ている。4:00amにオリオン座見えた。
(来た道を戻れば日数が掛かる、帰国便の変更をするかしないか?、カトマンズまでの日数をガイドと相談する。
山へ入れば、何が起きるか分からない...今回は帰国便の無料変更出来る航空券を買っておいたので気分としての余裕はある)
アムリットガイド 先発隊が心配で上部へ様子を見に行こうとするが、ラッセル深くて進めない...戻ってきて8:30 すぐ下山開始(撤退です)


(左・レダー上部の危険な斜面トラバース、中央・レダー2泊したロッジ:電気暖房無し-10度)
しばらく雪の中を下っていくと、ヤクカルカで人が沢山外に出ている。
何事かと聞くと トロンパス両側で、雪崩の為.沢山の人が遭難したとの情報を知る。
大雪で停電となり、電話が通じなくなっていたので、ヤクカルカでアムリットガイドが、コスモトレックへ安否確認の電話を掛ける。ヤクカルカの下側でも雪崩があり、さらに途中の緩斜面でも無数のなだれ跡が見られる...ヤクの親子3頭が埋まって もがいている。助からない。
すぐ近くで 数頭埋まっていると 周囲で話をしているのを聞いてると気が滅入る...湿気の多い雪の為、歩が進まない。
気持ちも疲れてきた。
この1日で強烈な紫外線にさらされ日焼けしてしまったが昼食はガイド推薦の、炉端食堂でローカルカレーを味わった。
とても印象に残る炉端でありました。
マナン着17:30

政府によりトロンパスへの登山道閉鎖された為、マナンでは登る人は出発できず、ピサンから登ってくる人もいて、ロッジが満室状態でガイドが探し当てたロッジには入れたときは、戻って来れないパンカガイド以下5名の気がかりもあって私達もくたくたに疲れました。
15日夜遅く、パンカガイド以下5名がマナンへ戻って来れた...翌朝全員揃った顔を見れて本当に安心できました。
私達が無事であったのは、神仏のご加護と、幸運もありました。
(峠先30名、峠手前160名行方不明、未確認情報確認遺体47名・ご冥福をお祈り致します)

(ベシハサールまで7日間の遠い道)
マナン泊・3540m
(ロッジ)
10/16
木曜日・晴れ
マナン発8:00。あの2日間の大雪の中で、チーム鈴木皆無事であったことが、こんなに嬉しい気持ちにさせてくれたことを感謝しながら歩く。
突発的なモンスーンは、電信柱をなぎ倒し、送電線は、もつれた糸のように雪とからみあって、安心して歩ける道は無くなくなってた。細心の注意を払って、送電線のワイヤーに触れないように通過しフムデの村で昼食を摂り、歩き始めて、すぐ先で山のようなブロック雪崩の現場には正直ビックリした。
目測高さ5m幅30m。
人は乗り越えられたが、馬とロバは通過できない。昨晩あたり遙か上部より飛んできたそうだ。
私達の日程も、この事故により3日遅れの予想となった為、1日に歩くコースにも無理が出てくるようだ。
少しでも早く、町へ戻れるようにガイドがジープの予約努力してくれるが、ことごとく裏切られ、ガイド行も大変だと感じた。
ピサンを過ぎて、デイッカーポカリまで歩いて泊まった...

デイッカーポカリ泊
10/17
金曜日・快晴
デイッカーポカリを早朝でて、チャーメでジープをチャーターして、今日中にターレまで行きたいとガイドは言ってた。
ポカリ 7:00発
昔の人道を緩やかに上り下りを繰り返し、マナスル連山を正面に見ながら、楽しいコースであった。
しかしガイドの思惑と異なり、ジープ予約、2重3重ブッキング...雲助はびこる...とうとうガイド声がつぶれて音声、出なくなる。
結果的に 見晴らしの良い場所を10:00チャーメ、10:40コートー、14:40ダナキュー、この様にノンビリ歩けたことは良かったと思う
ダナキュ泊
10/18
土曜日・晴れ
ジープの持ち主と直接交渉してチャーターしたジープで ダナキュー出発6:50。
ターレへ着いて 土砂崩れ場所を徒歩で越えて 下側のジープに乗りベシサハールへ到着13:30。
ジープに乗った時間 6時間 運転手とも17人と その荷物を載せて無理無理走った。
下側で待機していたジープは2重ブッキングしていたが、それでも私達12人と荷物は、先客4名に覆い被さるように積み込み 乗り込み人がぶら下がり途中食堂で昼食をはさみ、ダムの工事現場を走り抜け、のろのろと走りきってベシハサールへ到着した。
信用できないのは、道路の質と運転手の質。
全部歩けば精神的にとても豊かであったと感じる人が多いに決まってる。時間がないとこんな事になるようだ。
ベシハサールで 全員に ボクシス 渡す(日本円換算38,500チップ)...感激のご苦労さん会
アムリットガイドと相談しながら封筒に一人一人氏名を書き、ボーナスを入れながら顔を思い浮かべ、その人達の生活を想像し、責任を果たした充足感を味わう。
ベシハサール泊・1760m
10/19
日曜日・晴れ
セダンで8:00発 ポカラへ向かう カトマンズハイウエーからの アンナプルナ連山の景色は素晴らしい
ポーターたちはカトマンズへ行き解散。
私達は12:00ポカラ着 買い物と食事に出かける。昼は日本食、夜はホテルでデイナー。
ポカラホテル泊
10/20
月曜日・曇り
5:00出発で サランコットの丘1530mへ自動車で行き アンナプルナ連山の景色を観望
ホテル10:30 飛行機12:20で カトマンズへ13:10着...コスモトレックで山行報告...ホテルへ送ってもらい、タメルへ買い物に出かける


カトマンズ泊・1330m
(ホテル)
10/21
火曜日・曇り
朝.石黒久さんがホテルへ訪ねてきてくれた。ネパールでの仕事の話とか、山の話とか、今回の遭難のこととか話をしました。
11:00出国 空港発13:50 TG320.15AB
BANGKOK着18:25
BANGKOK発22:45 TG682.15JK
10/22
水曜日・雨
帰国日 羽田 朝6:15着  7:25発のリムジンバスで箱崎へ、家族の迎えで家へ8:15帰着
樅の木会有志の皆さんありがとう。
大関ケルンをティリチョに積んで来れました。
家族の皆さん山へ行かせてくれてありがとう。
追記:
2013年10月6日ティリチョで遭難した、大関保さんのご遺体を奥様の付き添いでカトマンズに引き取りに来たとき、追悼ケルンは当然作る物と考えました。
大関保さんは樅の木会の先輩で、鈴木が初めてヒマラヤへこれた時のリーダーです。
ネパールの言葉を学び、20年以上前から20回以上、ライトエクスペデションを重ね、高等学校教師の時代には、高校生をヒマラヤ6000m峯に登頂させる指導もしてきました。単行本も発行して、少人数でもヒマラヤへ行けるというスタイルを実践し、後進の指針となっておりました。
チーム編成は 大関さんが信頼していた、カトマンズ市のコスモトレック会社(大津社長)にお願いしました。
チーム鈴木12名。
樅の木会の山行として、プレートを持ってくる事は叶いませんでしたが、私達がティリチョ5000mへ登ることに際して会員有志から餞別を頂きました。
お陰をもちまして、大関ケルンを積んで来れました。
ありがとうございました。

アンナプルナサーキットで高所の大雪に遭遇したとき、安全に撤退できたのは、樅の木会先輩の指導の賜と考えています。
Call to lift Annapurna Circuit route ban ...HIMALAYAN News Servis ...Pokhara October 19